3.我々の宗教は神道原理主義である

この様に、「神」を直接現す、姿も形も無いのだが、名無しという訳にはいかない。
其処で、我が国古代の古事記や日本書紀の神話に記されている、天地が
開けたとき最初に出現した、天地万物の大元主宰の神として崇められている、
「天之御中主神」こそが、我々が唯一に信仰すべき神であり、八百万の
神の創主というべき存在であらせられるわけだ。
 
つまり、神道としての始源神ともいうべき神を再認識したうえで、我が民族に広く布教
すべき神であり、更に皇祖神であられる天照大御神の祖神でもあらせられるわけで、
まさに源泉となる神を純粋に信仰することから、日本発祥の神道の原理的な主義が
はじめて成り立つわけである。 

これは、決して新興宗教でもなく、また新たなる創造神仏とかいうレベルのものではなく、
真実なる原理で、未来に於いても普遍なものである。 
と言っても、既成の神社神道や中世の古神道でもないのだ。

ではなにかと申せば、我が国の古来独自の「先祖崇拝」や「自然崇拝」に
基づき発展した「生き方」や「観かた」「考え方」を根本に於いた上で、この国から独自に
発祥し信仰されている「神道」を純粋に、信じていき、尊び、学び、活動し、
個人から社会へと育むものなのだ。

超大国アメリカの国家戦略には、キリスト教原理主義が大いなる影響を与えている。
ユダヤ教のイスラエル然り、中東地域を始めとしてアフリカ・東アジアに至る強固なる
イスラム教原理主義など、米ソ冷戦終結以降は特に、原理主義同士の壮絶なテロや、
地域戦争が多発している。
 その共通のキーワードである原理主義とは、他の宗派を絶対に認めないという
教義の大原則の基、互いに排除するまでは終焉することはない。
残念ながら、宗教戦争は有史以来の普遍的な戦争でもあるわけだ。
然し、我らの神道原理主義とは、教祖や聖典等の原理主義
ではなく、宇宙の地球における自然、つまり「有りのまま」の自然教なのである。

それにしても、宗教を根元とした戦争は、何故熾烈なのか?

それは、世界では大多数の人間は宗教を生命の源として、精神的支柱として捉えているからであり、
民族挙げての国家宗教となっているのである。

翻って、日本には戦前の過激な国家宗教としての神道が精神的支柱ではあったのだが、
戦後の占領政策によって完全否定され、逆に抑制され過ぎてしまった。
 
けれども、我ら民族に脈々と受継がれてきた血と魂の中に、決して拭い去ることの出来ない
神道の息吹が、この乱世の虚無観の中に今鮮やかに蘇ろうとしている。 
其れが、我らが主宰する神道原理主義なのである。

4.我々の活動の神髄とは
我々の神髄は、もう一度この国を明治維新を成し遂げた志士たちのように、
日清・日露戦争に勝利し日本をアジアの代表となるべき国家に押し上げた
明治時代の高揚していた国家国民のように、本心から国を愛する
心を蘇らせることにある。


そのためには、其の大黒柱になるべき国民一人一人の根本原理としての
大きなる支えが絶対に必要であり、其れ無くしては、大戦に負けたように、
バブル後遺症で漂浪している現在の国民のように、世界で堂々と主張できない
「もの言えない」国家国民に成り下がってしまう。

国があるから民がいるのか、民がいるので国があるのだろうか。

戦後の奇跡的な経済復興を成し遂げた「モノつくり大国」と言われる我が国では、
勤勉な国民性が充分発揮されたのだが一方で、その経済発展の陰で、
「人づくり」としての教育が余りにも歪であった為に、昭和以降から代々に於いて、
精神・道徳的に退化した民族に変貌してしまった。

その結果が、「無責任」という何事も責任を取らず、やりたい放題、好き放題、
勝手気侭な人々を輩出するような国家になってしまった。
責任を取らず秘書に責任転嫁をする全国津々浦々の政治家・議員、組織の
不正に於いて責任を免れられる官僚・公務員、他人にはとても厳しいが身内には
出来る限り甘い警察・検察・裁判所、スポンサーの為に存在し国民の為になる
真実の真相を覆い隠しているマスコミ達、儲けの為には談合贈賄何でもありの
大手企業、税金泥棒の銀行などの主導層たち。

一体、誰が責任を取るのか!
 この国に武士(もののふ)はいないのか!

結局何でもうやむやで、それが毎日毎日繰り返されれば、とどのつまりは
モラルハザードという倫理崩壊や規範意識の崩壊になってしまった。 

もう後が無いどころか、等々、落ちるとこまで落ちてしまった感がある。

大の大人がこのようであるから、当然若者たちは、年々酷くなる有様で、
この頃の犯罪の急激な増加とその目的内容には到底理解できない。
その若者たちがやがて親に成り、子を育てるのだから、その子が将来どうなるかなどは、
想像するに難くない。この頃は大いに麻痺している。

ただ救いは、この乱世でも希望に燃える若者や前向きな若者が少なからず、
頑張っているのには、環境や本人の自浄努力であるのであろう。

でもそれは少数であって大多数の国民は、いき過ぎた放任的自由主義により、
我儘で傍若無人な民族となり、亡国の民として飄々としている。

我々は、人生に不安や不満を抱いている人々や、この国を少しでも憂いている
人々に対し、我々の神道原理を布教して教化育成する。

その結果、心に大いなる安心と精神的支柱を与え、同時に其の人に合った
生き方や志を抱かせる礎となろう。

 
つまり、心の安らぎと、社会での難事にも決して怯まない心の在り様を持ち、
更に人によっては、社会や国に対し志を抱き、信念の基に行動を起こし、
より良き社会に貢献していこうとする立命を喚起させる基にもなろうという事だ。

自己の人生での充実をもたらせて、人間として進化し、更に人によっては、
志をも育むような宗教、其れが我々の神道原理に基づく繁栄ある
「いやさかなる」宗教である。

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