5.この国の偽れざる真相とは

 

 この日本国全体に蔓延する不正・不満・不案・不信が、いつのころからか、
我が国に暗く覆い被さっている。

好き放題勝手にこの国を動かしている、政治家と官僚たち!

そして、それらを金とポストで裏から操りながら、膨大な既得権益を保持し、
更に欲し続けようとしている、多くの大企業たち!

政・官・財の鉄のトライアングルによって、蝕まれた我が国の民族は、
何処に希望を、未来を見出せればよいのだろうか?

 もの言わず、社会に無関心で、この悪政にもただひたすらに
沈黙している大多数の人々。

其れをいいことに、輪をかけてやりたい放題に搾取し、
無責任極まる政治の数々。まったく惨憺たる有様であろう!

この国の何処に、「正義」・「大儀」を見いだせばよいのだろうか!

 バブル崩壊と共に、我々に見え出したのは、経済至上主義の名のもとに、
今まで潜んでいた、心の荒廃だった。
大戦の敗戦後の混乱と占領政策によって、戦前の強固な「国を愛する」
気持ちを完全否定する教育や、米国が民主主義を日本に導入するとき、其の民主主義は、
米国式ではなく、歪んだ、統制された民主主義いわゆる社会民主主義なる
日本独特の統制された民主国家を創出してしまった。  

 もとより、江戸時代から高度な職人技術を有していた我が国は、明治維新後、
産業革命から富国強兵路線を突っ走り、東洋の国の中でいち早く先進国家の
仲間入りとなったぐらいに、技術や勤労能力は優れていることもあって、
戦後、驚異的な経済復興を果たし、その結果、米国に次いで、世界で2番目の経済力を
有する経済大国になった。

 そして国はあり余る金を、放蕩の限りを尽くし、使い果そうとしている。

然しながら、その過程で、国づくりの大事な礎である民族の教育が、
日教組と文部省との綱引きという政争に明け暮れた結果、精神と道徳の教育が軽んじられ、
知識偏重の不健全な民族が育成されてしまった。

これは、何と不幸で、不憫なことではないだろうか!
 
まさに、「仏造って魂を入れず」ではあるまいか。

 政・官・財の永年に渡る癒着構造の中での不正なる富の配分、
一部の既得権益者による富の独占など、富の格差が年々急速に拡がりつつある。

その結果、国民の一部の権力者や富裕層は益々栄え巨大になりつつあり、
そこまではいかないが生活に困らず、適度に余暇を満喫できる中流層と言われる、
大企業の社員や公務員は、今日の状況でも充分満足が出来、
与えられた中で、人生を謳歌しているであろう。

 然しながら、我が国の大多数の人々は、毎月の年金のみで生活している老人たちや、
倒産や不況に怯える中小企業の経営者や、更にリストラの不安に怯える社員たち、
まして働こうにも就職できず、止むを得ずフリーターなどの不安定な職しか選択できない
若者たちや、家に引き篭もったり、街を目的も無く徘徊することで漂っている若者たちが、
只ひたすら、世の中が好転するのを、じっと待ち続けている、そういう人々なのである。

 公平なる土俵(フィールド)の中で、個々に於いて、頑張った者、努力した者による
経済・勤労活動の結果によっての、富の配分や格差であれば、
当然我が国の国是である民主主義や資本主義に則って、国民誰しも納得できようし、
又、そこから芽生えてくるのは、個人個人の努力による公正なる競争によっての
健全な社会であり、経済が培われよう。

 不正を排除し、公平なるルールで、公正な競争の結果、良いものは勝ち選ばれ、
悪いものは駆逐されるという、本当の競争原理であれば、
真にこの国はより良い社会へと、発展するであろう。

 然し、残念なことにこの国の隅々にわたって実施されている公共事業は、
談合という歪な状態で執り行われているのは、周知の事実であろう。

談合は、既得権益を生み出し、そこには癒着が生じる。
更に癒着の為に、歪んだ政策や偏った政策が罷り通るようになる。
悪の輪廻が、益々この国を堕落させ、社会全体に悪影響と多大な負債を充満させる。
 
良い事は全く無く、一部の既得権益者だけに甘い汁をのうのうと吸わせている。
まるで、この国の寄生虫のように。黙々と吸い続けている。

 こういう図式は、何も公共事業だけでなく、医療や介護、農業、教育、産業政策など、
この国の官僚行政の、至る所に見受けられる。

 この問題に真摯に取り組んでいた故石井代議士の死は、とても残念だが、
誰かがこの国の不正をもっと曝していかないと、国民はまだまだ、搾取され続け、
やがてどうにも立ち行かなくなってしまうだろう。
 
それでは遅過ぎるのだ。

亡国への悪化を、如何にかしなくてはならない。

 長野県知事である田中康夫氏が、長野県内において談合システムと闘っているが、
永年この国を蝕んできた制度は、政治家・公務員・大手民間業者の
根元まで染み渡っており、更に変化を望まず、今が良ければ他の事は何も考えない
保守的な人々の後押しも有る為に、そう簡単にはいかないようだが、
国民周知を背に何とか怯まず改革してもらいたい。 

 ただ思うに、談合も当初は、相互扶助の目的で行われたのであろうが、
段々と指名入札制度を悪用する輩が跋扈してきだすと、当初の目的が歪められて、
単に皆で税金泥棒の算段をしているのに過ぎなくなってしまった。 この悪しき慣習が、
我が国津々浦々の自治体で役人公認、
酷いところになると役人指導の不法が堂々と罷り通っている。

 このように制度の悪用は、当初の目的や使命から大きく逸脱するだけではなく、
他の分野でも同じよう制度の崩壊をも呼び起こさせ、その結果、なかなか表にでにくい
犯罪を醸成させ、しいては,ばれなければ何でも有りという風潮をも醸成される、
まさに悪循環である。

 やはり人間は、性善説より性悪説をとるべきなのか…。

この国特有の「和をもって貴しとなす」の誤った捉え方にあるのではなかろうか。 
「和して同ぜず」という考え方のほうが、今からの日本には、必要じゃないかと、
我々は痛感する次第である。

6.この国と宗教の行方!

 

 「この国は、一体何を考えているのか。」 「何処に行くのだろうか?」

多分明確な指針を持っている政治家や官僚は、ほんの一握りであろう。

 構造改革や行財政改革、年金改革、歳出の大幅な削減、少子化・高齢化対策、
義務教育改革、医療改革、規制の大幅な緩和などなど、いま大きな節目にあたる
この日本国は、改革の大合唱に溢れているが、遅々として進展せず、
官僚指導の茶番が繰り広げられている。

 見せ掛けや骨抜きの「改革ごっこ」ドラマをテレビや新聞を通して、茶の間に伝えている。 
筋書きのないドラマではなく、筋(正義)のないドラマである。
それも、見るからに大根役者である、省益保護の官僚と勲章期待の御用学者と
金儲けの族議員でだ。視聴者はとうに飽きていて、今や誰も見るきがしない低視聴率ドラマである
早晩、打ち切り確実だ。

それでも、誰も文句言わないのだ、テレビ局に。ではなく国にだ!
 
 不思議だ?国が大借金という大病を患い、尚も日増しに悪化し続けているのに、
政府や大部分の国会議員は声高に、大手術をすべきだと、叫ばないのだから。
もしかしたら、心配すらしてなく、「何とかなるさ」とでも思っているのだろうか。
否、「後任の誰かが何とかするだろうから、オレは知らないし、
揉め事は何の得にもならないから、放って置こう。 
それより金儲けや天下りポストが大事だ」と思っているに相違ない。 
 
 東大卒という受験戦争での最大な勝利者で、華々しい学歴を誇るエリート官僚たちを、
我が国の権力機構中枢の真の実力者として頂くこの国で、官僚たちは、国家としての概念と
観念、それに基づいて、進むべき将来への正道への舵取りを為されているのだろうか?
大いに疑問だ。

 もし、教育の在り方が根底から大きく違っていたとしたならば、其の重大な疑問に
納得できる事実、答えがある。

 それは、我らが何度も声を大にして言うように、教育の
根本として、「国を愛する心」・「この国古来から脈々と培われている神道という
この国独自の宗教」・「日本古来の神道、並びに、
日本に伝来し大きな影響を与え、更に日本独自の教学として発展昇華し、
大成した仏教と儒教と道教に基づく道徳・倫理・規範意識」
という、戦後のこの国にとって、本当に必要で大切な「心と精神、思想」の
教育の基礎というか根本が、大きく抜け落ち、総じて正確に施されなかったのが、
一番の原因であろう。

 
 それどころか逆に、完全に否定されたうえ、こういった考えを述べるだけで、やれ右翼だの
国家主義だのファシズムだの軍国主義だのと短絡的に決め付けられる風潮を、
政府や学者やマスコミ等に依って国民に対しても誤解を抱かせてしまった。
 
残念なことだが、我々も、もっと説き伏せる事が必要だ。

 これには、戦後の米国による占領政策によるものだが、もう一つ大事なことがある。
それは、この無謀で大儀なき大戦を敢行した、時の国家主体を始めとして、
政府・政治家・軍部の真摯なる反省が,後代の我ら国民の大多数にも感じてとれないからだ。

要はきちんとした反省が無かったのである。

そうかと言って、今もって謝罪するのも大いに情けない。

 戦後の西ドイツの様に、戦後直ぐに、徹底した反省が無かったのである。
 
確かに一方的で、偽善的な東京裁判による裁判というのは在るには在ったが、
これは、米国の独善的な大儀を見せつける場としての、「勝てば官軍」という
意味合いでの裁判であった。
 
 これは全てに共通しているのだが、歴史は多面的に、ある一点ではなく、線として
出来事を観なければ、どうしても偏ってしまうのだが、その後の政府・政治家が、
東京裁判で全ての罪が贖罪されたという思い違いで、大戦を忘却し、
日本国としての真摯な反省を経ないまま、今日に至った為に、今もって、政治家の失言がある。
 
当然、近隣国は此れ幸いと、「反省が無い」と抗議をするが、近隣国側も当時のアジア情勢を
相対的に捉えて、是々非々で言うべきであろう。

 それよりも何も、今もって、中国や韓国や北朝鮮にもの言えないこの国が、
とても情けなく且つ、憤りを感じる。

つまり、戦後、この国で真摯に真剣に大戦を検証し、その結果反省すべきものは反省し、
謝罪すべきものは謝罪すべきであろう。 

 但し、この戦争に追い込まれた原因を思えば、言うべき事や正義あるところは堂々と
主張すべきである。が、何せ其の前提としての真摯な謝罪、けじめを取らず、
戦後は経済的に繁栄してきたものだから、我が国は、「経済は一流だが、政治は三流」と評された。

常任理事国でもないのに国連からも、世界一二を争うほどの分担金(我が国の税金)だけ分捕られ、
そのくせ世界的に認めてもらえられず、軽んじられ、ODAと称しては金銭援助だけは
諸外国からたかられる、今もって真の外交が出来ない「バラ撒き外交」「弱腰外交」を演じている、全く
情けない意思の弱い国でもある。

 この国の正義を、進むべき真の道を唱え叫ぶ者が居ないのであれば、大いに不幸であり悲惨だ。
その結果が、今現在の我が国、日本の内外に置かれている現状が総てを顕しているなによりの惨憺たる真実だ。

 ここにある種一つの救世主的待望論が、一方で湧き出てくるのは当然ではあろう。
民族のエネルギーが有れば、尚更のことである。


 然しながら、そういう他人任せの無責任ではなく、やはり民族が真の自己を確立すべく修養した後に、
自ら、正道な主義によっての実践活動を通して、変えてゆくしかないのである。
 
一歩一歩時間は懸かるではあろうが・・・。

其の自己確立の根本原理としての大いなる支柱が、我らの神道である。

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